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Artist

江利チエミ

Title

SP盤再録による
江利チエミ ヒットアルバム VOL.2


eri hit album2
Date 1955-1958
Label KING KICX3115 (JP)
CD Release 2002
Rating ★★★★
Availability ◆◆◆◆


Review

 わたしの勤務先は老人保健施設である。老人保健施設というのは介護が必要なお年寄りが在宅復帰を目的に入所する施設(実際は家族のガードが堅く復帰が困難な状況)。平均年齢は約84歳。入所者の8割以上が女性である。

 何年か前に、「流行歌でふりかえる昭和」と題して、施設のお年寄りを相手に約6ヶ月間、セミナーを隔週で持つ機会があった。最後の2回がひばり・チエミ・いづみの三人娘の特集だった。
 大好評だったひばりに対し、チエミ・いづみの人気のなかったこと。服部良一を特集したときもそうだったが、「ジャズ」、つまり欧米風ポップスの影響が色濃い曲調は“大正生まれの田舎育ちの百姓出”からはことごとく敬遠されるのであった。

 昭和26年(1951)、民間ラジオ局が次々と開局したのをきっかけに日本に(最初で最後の)ジャズ・ブームがわき起こった。14歳のチエミが米軍キャンプで歌い「テネシーワルツ」でデビューしたのはそんなときだった。“天才ジャズ少女歌手”と騒がれたのだが、実際はカントリーが専門で、おもにハンク・ウィリアムスのナンバーがレパートリーだった。

 すこし遅れて、ペギー葉山が「ドミノ」で、雪村いづみ「想い出のワルツ」でデビュー。彼女たちはみな、オリジナル曲を持たず、外国曲を英語と日本語のチャンポンで歌った。英語によってオシャレでインターナショナルな感じをアピールしつつ、日本語によって親しみやすさを持たせるねらいだったのだろう。米国の植民地から日本が独立したサンフランシスコ講和条約締結のときに、ジャパニーズ・ポップスが生まれたというのはなにやら象徴的だ。

 その後は、チエミも、ペギー葉山も、いづみも、オリジナル曲を発表したり、歌謡曲や演歌、民謡などにもチャレンジして、ジャズ、ポピュラー歌手からの脱却をはかるのだが、ペギーの「南国土佐を後にして」を除けば、国民的な大ヒットとまではいかなかった。つまり、チエミといづみは、最後まで“大正生まれの田舎育ちの百姓出”にはしょせん縁遠い存在だったのだ。

 さて、わたしにとって江利チエミにかんするリアルタイムな記憶はというと、ガサツで男まさりな「ミネラル麦茶」でおなじみのオバサンである。美空ひばりは「金鳥蚊取り線香のオバサン」だったし、雪村いづみは、娘の朝比奈マリアといっしょに、くだらん絵を二科展へ出品するカルチャー・オバサンだった。ついでにいうと、ペギー葉山は、NHKの「歌はともだち」で、歌いたくもない健康的な歌を子どもたちに強要しようとする邪悪なおばさんというイメージが強い。

 「テネシーワルツ」'TENNESSEE WALTZ' 「家へおいでよ」'COME ON A MY HOUSE' のカップリングでデビューしたのは昭和26年(1951)12月。チエミ14歳であった。『SP原盤再録による江利チエミ・ヒット・アルバム第1集』(KING KICX 3105)には、デビューから29年(1954)3月発売の「アンナ」まで年代順に18曲を収録。飾り気なくサバサバとした歌い口がとても新鮮で、しかし裏を返せば、まだたどたどしくモッタリしたところがあり歌が十分にこなれていない。

 「家へおいでよ」の投げやりな歌い方には、あきらかに笠置シヅ子の影響が感じられる。だから、「ツゥー・ヤング」'TOO YOUNG'「ブルー・ムーン」'BLUE MOON'「アゲイン」'AGAIN' のようなスロー・ナンバーでは、ツヤっぽさや哀感が乏しく消化不良の感まぬかれない(ここが同世代の美空ひばりとの決定的なちがいだ)。

 「チャタヌギ・シューシャイン・ボーイ」'CHATTANOOGIE SHOE SHINE BOY' は、日本でマンボ・ブームが起こった昭和27年(1952)4月の発売。チエミが最初に取り組んだラテン系音楽である(もとはカントリーの大御所レッド・フォーリーのヒット曲)。ちなみに、和製マンボの傑作「お祭りマンボ」の発売とおなじ年。ここではまだ、チエミの歌もバックサウンドも後年ほどには弾けていない。

 ところが、28年5月に初渡米から帰国した直後に吹き込まれた「思い出のワルツ」'TILL I WALTZ AGAIN WITH YOU'「サイド・バイ・サイド」'SIDE BY SIDE' あたりから、声にしなやかさとパンチ力が出てきた。彼女自身の多重録音による二重唱でうたわれる「君呼ぶワルツ」'LET ME CALL YOU SWEETHEART'「ヴァイア・コン・ディオス」'VAYA CON DIOS' のロマンティックな歌唱、「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」'HOW HIGH THE MOON' でのクールでハギレのよいスキャットは約3ヶ月間のアメリカ滞在の成果なのだろう。

 そして、ラテン音楽ファンとして捨て置けないのが、ラストの「アンナ」'ANNA [EL NEGRO ZUMBON]'。この曲はシルヴァーナ・マンガノが主演したイタリア映画『アンナ』(正しくは『アナ』)の主題歌として、映画音楽(というよりモンド・ミュージック)の巨匠アルマンド・トロヴァヨーリが作曲したイタリア製バイヨンだ。バイヨン(正しくはバイオーン)は、ブラジル北東部(いま風にいうとノスデルヂ)出身のルイス・ゴンザーガが40年代半ばに発案したリズム。53年公開の『アナ』によって世界的にブレイクした。

 当時、日本のポップス歌手がカヴァーしたのは、ビルボード・ヒット・チャートのナンバーばかりだった。だから、マンボも、チャチャチャも、バイヨンもアメリカナイズされたものが日本にもたらされた。それどころか、ジャズやブラック・ミュージックさえ、大半が白人が演じたものだった(多くの黒人アーティストは人種差別のせいで事実上、ヒット・チャートから閉め出されていた)。

 しかし、わたしたち日本人にとってさいわいだったのは、50年代のアメリカがジャズ系ヴォーカル曲、カントリー、R&B調、ラテン系音楽、映画の主題歌と、世界の、さまざまなタイプのポピュラー音楽を取り込むだけの柔軟さを備えていたこと。これがエルヴィス以降になると、チャートの動向は若年層のニードにほぼ左右されるようになったため、音楽のスタイルの幅がせまくなった。

 ふたたび江利チエミに話題を戻そう。
 本盤は、全3集からなる“SP原盤再録によるヒット・アルバム”シリーズの第2集にあたる。昭和30年1月発売の「スコキアン」'SKOKIAAN'「セ・シ・ボン」'C'EST SI BON' から、33年7月発売の「君はわが運命(さだめ)」'YOU ARE MY DESTINY' までの全18曲。うち半数が30年、31年と32年がそれぞれ4曲、33年が1曲という構成。

 チエミ18歳の昭和30年(1955)こそ、彼女の歌がもっとも輝いていた時期だと思う。そして、この年はマンボ・ブームが最盛期を迎え、チャチャチャが日本で本格的に広まるようになった時期でもあった。ラテンのカラーで彩られた本盤では、チエミの歌以上に、15曲でバックを務める見砂直照(みさご・ただあき)と東京キューバン・ボーイズの演奏が光る。

 冒頭の「スコキアン」の原曲は、南アフリカのタウンシップ生まれの音楽クウェラで、54年にラルフ・マーテリー楽団の演奏と、コーラス・グループ、フォア・ラッズ Four Lads の歌がアメリカでチャート上位をしめた。ルイ・アームストロングやペレス・プラードもカヴァーしている。
 わたしは、中村とうようさんが選曲・編纂した『大衆音楽の真実II』(オーディブックAB52)収録のマーテリー楽団のヴァージョンでこの曲をはじめて聴いた。本家である南アのアフリカン・ジャズ・パイオニアーズも"LIVE AT THE MONTREUX JAZZ FESTIVAL"(GALLO CDHUL 40281)でご機嫌な演奏を聴かせてくれている。
 チエミ・ヴァージョンは、フォア・ラッズをベースにしながら、ラテンのリズムはペレス・プラード楽団の演奏(相変わらずつまらない)を手本にしていると思う。“おキャン”という死語がぴったりなチエミらしい陽気で軽快な歌唱である。

 続く「セ・シ・ボン」'C'EST SI BON' は、セクシー系の黒人歌手アーサ・キット(TV版「バットマン」のキャットウーマン役で知られる)が1953年に放ったヒット曲だが、あまりにセクシーすぎてNHKで放送禁止になったとか。オリジナルは47年にシャルル・トレネがうたったシャンソン。
 日本では、宝塚出身の宝とも子がチエミより早く昭和29年4月にカヴァー。アーサにひけをとらぬセクシーな歌い方に、扇情的との投書が相次ぎこちらも民放連が放送を自粛したといういわくつきのシロモノ(宝とも子『セ・シ・ボン〜“ラテンの歌姫”至上のアンソロジー』(VICTOR VICG60226)収録)。これらとは対照的に、チエミの「セ・シ・ボン」には、セクシーさのカケラもなく、ひたすらキュートな仕上がり。ラテンのビートとの相性もよい。

 ところで、宝とも子は「セ・シ・ボン」のヒットを受けて、昭和29年から翌年にかけて、アーサ・キットの「盗まれた花嫁衣装」'SOMEBODY BAD STOLE DE WEDDING BELL' とエームス・ブラザーズの「裏町のお転婆レディ」'THE NAUGHTY LADY OF SHADY LANE' をリリース。まったく同時期にチエミも、これら2曲を「ウェディング・ベルが盗まれた」「裏町のお転婆娘」としてカヴァーしている。前者は『第3集』(KING KICX 3123)、後者は本盤で聴くことができる。安定感では圧倒的に宝に軍配だが、つたなさを残すチエミ・ヴァージョンもそれはそれでみずみずしく清々しい。

 「セ・シ・ボン」「裏町のお転婆娘」とのあいだの昭和30年3月に発売されたのが「パパはマンボがお好き」'PAPA LOVES MAMBO'。この底抜けに陽気でさわやかなナンバーは、ペリー・コモのヒット曲で、ビクターからはデビュー間もない高島忠夫が金色仮面(小林千代子?)とデュエットでカヴァーしている(『リズムの変遷〜日本ラテン傑作選』(VICTOR VICG60229〜30)収録)。ペリー・コモ、高島、チエミのヴァージョンを聴き比べてみると、チエミのがもっとも軽やかでノリがよい。個人的には、チエミの数ある歌唱のなかでもお気に入りの1曲である。
 余談だが、高島忠夫には「マンボ息子」と題するおきて破りの和製マンボがある(『南国の熱風〜ハイパノラミックシリーズ ビクター編』(ビクター VICL5258)収録)。

 そして、ムーン・ライダーズのリメイクで知られる昭和30年7月の「イスタンブール・マンボ」。ネタもとは、フォア・ラッズのヒット・ナンバー'ISTANBUL (NOT CONSTANTINOPLE)'。フォア・ラッズもエームス・ブラザーズも50年代に活躍した白人ヴォーカル・グループ。なにせ、エルヴィスが登場する前のこと。どれもお行儀がよすぎて、いま聴くとツライものがある。その点、タイトルに「マンボ」を加えて、ラテンのビート(マンボではない)で味つけし直したチエミのヴァージョンは無国籍性がきわだって、あまり古さを感じさせない。

 チエミの中近東風エキゾチック路線といえば、前年の29年9月に発売された「ウスクダラ」が有名(『第3集』収録)。こちらは、トルコ民謡をベースにしてアーサ・キットがエキゾチックなお色気たっぷりにうたった'USKA DARA - A TURKISH TALE' をリメイクしたもの。
 チエミ版「ウスクダラ」の伴奏は、ジャズ・バンドの原信夫とシャープス・アンド・フラッツ。ために「イスタンブール・マンボ」ほどの無国籍性は感じられず、もちろんアーサのようなお色気もなく、坂本九の「悲しき六十歳」'MUSTAPHA' に通じるノベルティ・ソングになってしまっている。本盤収録のもうひとつの中近東風ソング「シシュ・カバブ(串カツソング)」'SHISH-KEBAB' はさらにオチャラけた内容。“キャット・ウーマン”と“サザエさん”とでは、勝負の土俵がちがいすぎる?

 ちなみに、ムーン・ライダーズのアルバム『イスタンブール・マンボ』(昭和52年)には、「イスタンブール・マンボ」とともに「ウスクダラ」が収録されている。これら2曲(そのほか「シシュ・カバブ」もあったそうだ)は、もともとは江利チエミとのセッションのために、メンバーの岡田徹がアレンジしたものがもとになっている。実現していれば、雪村いづみとキャラメル・ママが共演した『スーパー・ジェネレーション』(日本コロンビア COCA12155)に匹敵する名盤になっていたかもしれないのに、オクラ入りになったのがかえすがえす残念だ。
 
 チャチャチャは、50年代はじめにキューバのエンリケ・ホリンがダンソーンに改良を加えて創始した新リズム。日本では昭和30年(1955)に発売されたホリン楽団の「チャチャチャは素晴らしい」'MILAGROS DEL CHACHACHA' がヒットして一気に広まった。
 しかし、チャチャチャとしては、それより前にアメリカのクルーナー系歌手アラン・デール Alan Dale がうたった「スウィート・アンド・ジェントル」'SWEET AND GENTLE'(オリジナルはれっきとしたキューバ産)が日本に紹介されていた。

 昭和30年(1955)12月、チエミは「スウィート・アンド・ジェントル」「チャ・チャ・チャは素晴らしい」でチャチャチャにチャレンジ。ライヴァルの雪村いづみも、同時期にこの2曲をカヴァーした。庶民的なチエミより、都会的でチャーミングないづみのほうがチャチャチャのもつ優雅でおしゃれな感覚にマッチしていると思う。

 “マンボ・キング”ダマソ・ペレス・プラードが初来日公演をおこなった昭和31年(1956)秋。これをピークにマンボ熱は急速に冷めていく。当然、チエミの歌からもマンボは姿を消す。
 続いて来たのはカリプソ・ブーム。ハリー・ベラフォンテの「バナナ・ボート」'DAY-O (BANANA BOAT)' が世界的に大ヒットしたのがきっかけだった。日本では昭和32年4月に浜村美智子がこれをカヴァー。1ヶ月遅れでチエミも「バナナ・ボート・ソング」として発売。浜村ヴァージョンと比べて濃厚さが足りないのは、適性の問題もあるが、ベラフォンテに先立ってこのジャマイカ民謡をリメイクしたフォーク・グループ、タリアーズのヴァージョンを手本にしたせいでもある。

 「バナナ・ボート・ソング」の2か月後に発売されたカリプソの第2弾「マリアンヌ」にしたところで、本場のカリプソニアン、ザ・ライオン(ローリング・ライオン)'MARY ANN' をパクッた白人フォーク・グループ、イージーライダーズの'MARRIANNE' のカヴァーでしかない。

 しかし、カリプソ・ブームは長く続かなかった。時を同じくしてエルヴィス旋風がついに日本にも上陸。爆発的なパワーでこれらを一掃してしまったのである。チエミも昭和32年3月には、エルヴィスの'LOVE ME TENDER' 「やさしく愛して」としていち早くカヴァー。
 さらに、33年7月にはポール・アンカの来日に便乗して、かれのヒット曲'YOU ARE MY DESTINTY'「君は我が運命(さだめ)」としてちゃっかりカヴァーしている。

 いずれの曲もあいかわらずバックは東京キューバン・ボーイズだし、チエミの歌にはロックンロールの新しい息吹きがまるで感じられない。ちなみに、日本にロックンロールが初お目見えしたのは昭和30年、ビル・ヘイリーがうたった'ROCK AROUND THE CLOCK' だった。同年12月、チエミは「ロック・アラウンド・ザ・クロック」として早くもカヴァーしているが、ノリはロックというよりジャズのおもむきだ(『第3集』収録)。ロカビリー時代の到来は、江利チエミを完全に過去のひとにしてしまった。

 昭和33年、高倉健との婚約、引退を機に、端唄「さのさ」を発売(本盤未収録)。この展開に無理はなかった。というのも、チエミの父は新内の柳家三亀松の伴奏者で、チエミも幼いころから都々逸や端唄といった日本的旋律に囲まれて育ったからだ。この路線が当たって、以降、チエミは民謡調に活路を見出していく。

 ここまで第2集収録曲について、ラテン系を中心にほぼ年代順に述べてきたが、あえてふれなかった1曲がある。昭和31年4月発売の「ババルー」'BABALU' である。この曲を聴きたいがために本盤を買ったといっても過言ではない。
 「ババルー」は、「タブー」'TABU' の作者でもあるマルガリータ・レクォーナが書いたアフロ調のナンバーで、キューバの大歌手ミゲリート・バルデースの十八番としてつとに有名。ミゲリートは“ミスター・ババルー”とあだ名されたほど、この曲と一心同体だった。だから、他の歌手では想像もつかない(例外はボラ・デ・ニエベぐらいか)。

 かつて“天才ジャズ少女歌手”といわれたチエミであったが、(味わいは別として)歌唱力ではひばりはいうに及ばず、いづみにもかなわなかった。そんな彼女が難曲「ババルー」に挑むなんて無謀にもほどがある。

 案の定、たどたどしく伸びやかさのカケラもない歌は良し悪しをいう以前に、聴いていて痛々しいほど。この曲のハイライトは、曲の後半にミゲリートがアフリカの呪文のようなシャウトを即興でうたうところにあるのだが、チエミにはこれに見合うセンスも実力もまるで備わってないようで、凡庸なスキャットで終始し失速していく。これがひばりだったら、ミゲリートの即興部分まですっかりコピーして自分のものにしていたことだろう。

 このように、いま客観的な立場から江利チエミの歌を聴くと、声にツヤはないし、表現力に乏しい、ノリがいまひとつで英語の発音も心許ない、というようにお世辞にも一流とはいいがたい。しかし、そんな欠点も感じさせないほど、当時の彼女の勢いは圧倒的だった。こんにちある彼女の名声は、歌手としてよりむしろタレントとしての評価なのだと知った。


(10.13.05)



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by Tatsushi Tsukahara